今回は、アッカドの滅亡から、アッシリアによるオリエント統一の一歩手前まで学んでいきましょう。
バビロン第一王朝(古バビロニア王国)
アッカドが滅んでから、再びシュメール人の国家が復活します。ウル第3王朝といいますが、無理な中央集権体制と西方からセム系民族のアムル人、東方からエラム人が侵入したことにより、滅んでしまいます。このあとメソポタミアは小国が分立する状態になりますが、そのなかから、前19世紀頃、セム系のアムル人がバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を建て、ハンムラビ王のときメソポタミアを統一しました。
ハンムラビ王は官僚機構の整備を行い、中央集権的統制をはかりました。広大な土地を管理するために地方総督のような存在もいたようですが、彼らには、司法、財政の権限はありませんでした。アッカドのとき地方総督に権限を持たせすぎていたことも、アッカド弱体化の一つの要因と考えられ、その反省を活かしたのかもしれません。また、城壁の構築や運河の開発・整備を行い国内の充実をはかりました。
ハンムラビ王がおこなったものとして一番有名なハンムラビ法典は、全282条もある法典なのですが、「目には目を、歯には歯を」の復讐法の考え方と、身分により異なる罰則を規定する身分差別の考え方が注目される点です。
「ハンムラビ法典ってどうなの?」
ハンムラビ法典に見られる身分差別について様々な見方が出来ます。同じ罪を犯しても、貴族より平民が、平民より奴隷がより重い罰則を受けるというものは、身分の高い者の犯罪を助長しているようにも見えます。しかし、何も規則がなければ、全く罰則を受けなかったかもしれません。また、奴隷などは、些細なことであっても、殺されることもあったでしょう。しかし法典により罰則が規定されたことで、奴隷であっても法の保護があるという見方も出来ます。また、結婚、離婚、遺産相続など現代に通じるものもありました。今も昔も人間はかわらないのかもしれません。
周辺諸民族について
メソポタミア中心に歴史を見てきましたが、このころになると、他のところでも動きが出てくるようになります。あまり大きく扱われていませんが、この後の歴史に深く関わっていきますので、しっかり学びましょう。
小アジアとヒッタイト
2時限目にみた「地図」を思い出してください。
前2000年頃、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人が、カフカズ山脈を越えて小アジア(アナトリア)に侵入し、先住民を従え、前17世紀半ばには、ヒッタイト王国を建てます。ヒッタイト王国は製鉄技術を独占して持っていたことに加え、馬と戦車の機動戦術も駆使したので、非常に強力な国家となりました。前16世紀にはバビロン第1王朝を滅ぼし、前14世紀にミタンニ王国を服属させ、前13世紀にはシリアをめぐる、エジプトの新王国ラメセス2世とのカデシュの戦いを優勢にすすめました。
しかし、前12世紀には衰退していきます。正直確かなことはわかっていないようなのですが、海の民による攻撃によって衰退したという説や、地震や干ばつなどにより、飢餓が繰り返し発生して属国や同盟国の離反により衰退したという説もあります。あるいはその両方であったかもしれません。
ヒッタイトが滅びたことにより、製鉄技術が各地に広まったことは、非常に重要です。時間差はありますが、ギリシアや中国などにもその技術は伝搬されていきました。
カッシート人
カッシート人は、バビロン第1王朝に徐々に労働人口という形で入り込んでいたのですが、ヒッタイトによりバビロン第一王朝が滅ぼされた後に、バビロニアを支配し、前16世紀にバビロン第3王朝(カッシート王国)を建てました。その後約400年間にわたり南メソポタミアを支配します。
ミタンニ王国
ヒッタイトお同じくインド=ヨーロッパ語族のミタンニ人が先住のフルリ人とともにミタンニ王国を建てました。メソポタミア北部から東地中海沿岸にまたがり、ちょうど小アジアのヒッタイト王国とバビロン第3王朝の間に位置します。ミタンニ王国も強力なヒッタイトの前に破れ服属してしまいます。しかし、このミタンニの衰退こそが、オリエント全体を支配する大国アッシリアの登場のきっかけとなっていくのです。
メソポタミアの文化
ここでシューメールからのメソポタミアの文化についてまとめてみましょう。
多神教
シュメールのところでも学びましたが、メソポタミアは多神教の世界です。都市には神様を祭る神殿がありましたね。メソポタミアでは国同士の争いが激しく、その時々により、優勢にに立った国の神が最高神とされていました。征服された国の神の方が影響力が強いと判断すれば、それをうまく利用することもあります。アッカドがメソポタミアを統一したときにはシュメールの神エンリル神より支配権を授かったとされています。このようにオリエントでは、天より王権を授かり、支配するという形が確立されていったのです。
楔形文字
楔形文字はシュメール人の発明したものでした。言語の異なるセム系民族やインド=ヨーロッパ語族も楔形文字を使用し、粘土板に書き記しました。
粘土板は練り直せば何度も使えるのでしたね。現在残っている粘土板は争いや火災などで焼かれて、たまたま残っているというようなものが多いようです。そのようにして残っている粘土板は数十万枚あるといわれています。
彼らは粘土板に行政経済、神話、伝説、文学作品などを記していました。有名なものに『ギルガメシュ叙事詩』があります。
実用学問の発達
メソポタミアが発展した理由を思い出してください。簡単にまとめると、灌漑農業により生産力が格段に上がり、余剰生産物が出来たので、農業以外の仕事ができるようになったからでしたね。
灌漑農業は川の増水をうまく使ったものでしたから、今年はいつ、増水するのか知ることが出来れば、ますます効率的になります。だから、それを追求する学問が発展していくのです。そのようななかで、天文・暦法(太陰暦)や、六十進法にもとづく時間の概念、七曜制など実用学問が発達しました。
今回は、ここまででおしまい。
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