2時限目:オリエント世界

まず、オリエントの説明をする前に、歴史を学ぶ上で、基本となることをお話しておきましょう。歴史を理解するには流れをつかむことが重要であるということはよくいわれることですが、流れを把握しやすくするためには、その人たちが普段どのような生活をしていたかを知る必要があります。いきなり事件だ、戦争だといわれ、その登場人物を紹介されても、想像力が働きません。より正確に当時の状況を想像できれば、どうしてそうなったか、どうしてそれをしなければならなかったのか、ということがわかり、自然と流れをつかむことができます。今回は特にそのことを意識してみていきましょう。


オリエントとは

オリエントといわれたら、すぐにこの「地図」を思い描いてください。

オリエント1

オリエントとは「日ののぼるところ、東方」という意味があります。ラテン語のオリエンスからきています。ラテン語は後で出てくるローマ人が使った言葉ですが、ローマはこの地図より左側、つまり西側にあるのですが、そのローマからみて「日ののぼるところ=東」にあるということを表しています。世界史ではメソポタミア、エジプト、小アジア、シリア・パレスチナ、イラン高原にいたる地域のことを指しています。

「場所」の次は「時代」を把握しましょう。古代オリエントでみるのは5500年前(紀元前3500年)から2000年前くらいの広大な範囲になります。

①場所を把握しよう
②時代を把握しよう

メソポタミア文明

メソポタミアとはギリシア語で「川の間」という意味です。川の間というくらいなのだから、2つの川が出てきます。ユーフラテス川とティグリス川です。

川というのは特に古代文明において非常に重要な役割を果たします。なぜなら、古代の人々は川を上手につかって、農業をするからです。農作物を育てるには土地の栄養分が豊富である必要があります。なにしろ、大昔のことですから、良質な肥料があるわけでもなく、仮に栄養分が豊富な土地をみつけたとしても、1、2年もすればすぐに土地がやせてしまいますよね。

けれでも、川は毎年上流から新しい土壌を運んできてくれるので、毎年同じ場所で農作物を育てることができます。豊かな土地を求めて移動する必要がなく、その場所で定住して生活できるのですから、家もそれまでより大きなものを建てられますし、周りに顔見知りができるようになるかもしれません。顔見知りができれば、今まで家族で農作業していたのを、みんなで協力して効率的におこなうことができますよね。ここで余剰生産物ができてくるわけです。

余剰生産物ができるということは、全員が農作業にあたる必要がなくなります。一部の人は他の仕事をしても問題ないわけです。ですから、さらに効率的に農作業がおこなえるような道具を作る人やそれらを売歩く人(商人)がでてきたり、運河や用水路といった土木工事もはかどるようになります。このようにして安定的に農作物を供給できるようになったことで、人口が急激に増え、都市へ発展していきます。

季節的な増水を利用した灌漑農業

灌漑農業 平常時 灌漑農業 増水時 灌漑農業 平常時2

特にメソポタミアは、開放的な地形(どこからでも容易にメソポタミアへ侵入できる)のために、周辺の地域から絶えず侵入が繰り返されていました。せっかくの農作物もその侵入者にとられてしまったのではたまりませんよね。侵入者に対抗するためにもみんながまとまっていたほうが安心です。

また、メソポタミアは平坦な土地のため、せっかく出来た運河や用水路も泥がたまりやすく、定期的に泥を書き出す作業が必要でした。

このように、メソポタミア特有の地形の中で生きていくためには、人々が協力し、集団で生活する必要があり、そのことが、いち早く都市をつくりだす要因になったことをおさえましょう。

シュメール人

このような都市は、シュメール人によって形成されました。シュメール人の特徴は、
①神殿を中心とした都市国家を形成したこと(代表的な都市の名はウルウルク・ラガシュ)
②王を中心とした階級社会
楔形文字の発明(世界で初めての文字)
の3点をおさえておきましょう。

シュメール地図2

シュメール人は数多くの都市国家を形成しました。国家とはいいますが、大きくはありません。小さな国がいくつも並立していました。

シュメール人は多神教(たくさんの神様を信仰すること)で、都市の中心にはジッグラト(聖塔)がそびえ、神をまつる神殿があり、神が都市を支配すると考えられていました。

ジッグラト

その代理人として王を中心に、宗教の権威により統治する神権政治がおこなわれ、神官、役人、戦士などが政治や経済、軍事の実験を握り、多くの人々を支配する階級社会が成立したのです。

楔形文字の発明

前回の授業の時に、文字の発明により記録を残すようになる以前が先史時代、以降が歴史時代打ということを学びましたね。まさに、この楔形文字こそが最古の文字であり、この文字のおかげで当時の暮らしの様子が分かるようになりました。
楔形文字はアシの茎を粘土板に押当て刻印していました。

楔形文字

粘土ですから文字を書いても、練り直せば再びつかえますね。保存する場合は焼いて固くします。楔形文字は次第に、シュメール人以外にも使用されるようになります。

メジェドせんせーメジェド先生の小話

「シュメール人の身近な暮らし」

シュメール人は非常に麦の生産能力が高く、麦を使い、パンやビールもつくっていました。なかには家畜のえさとして使用する例もあったそうです。それほど豊富に収穫できたということは非常に高い生産力があったということです。4500年近く前のことなのですが、ビールを飲むときの気持ちは現代人とかわらないのでしょうかね。

アッカドによる征服

シュメールの都市は互いに争いました。しかし、その争いの中で、前24世紀にセム系民族のアッカド人の王サルゴン1世により征服されてしまいます。この征服により、はじめてメソポタミアが統一されます。サルゴン1世は世界最初の有名人といっても良いでしょう。教科書には載っていませんが、覚えておいて損はないと思います。アッカドはその後も拡大を続けますが、各地で勃発する反乱や、ザクロス山脈からグティ人の侵入により、滅んでしまいます。

セム系民族の移動

セム系民族移動

セム系民族は、今後オリエント世界でかなり重要なので、少し紹介しておきましょう。

セム系民族は元々はアラビア半島で遊牧生活を営んでいました。その後、セム系民族はオリエント各地に散らばり定住していきます。教科書では、アッカド人、アムル人、フェニキア人、アラム人、ヘブライ人が出てきます。ここでは名前を紹介するにとどめておきますが、全て重要です。
今回出てきたアッカド人はサルゴン1世がメソポタミアを統一する以前から、シュメールの北方に移り定住していたと考えられています。遊牧生活を営んでいた彼らも、ティグリス、ユーフラテス河畔の肥沃な土地に惹かれ、次第に定住していったのでしょう。ですから、シュメール人とアッカド人はお互いに交流があったと思われ、ある日突然あらわれ、征服されたということではないようです。

今回の授業はこれでおしまい。



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